足尾鉱毒事件 5
予防工事命令
明治29年9月の大洪水の後、鉱業停止の請願が相次いでいた。これに対処するために同年12月、古河市兵衛に対し次の様な予防工事命令を出した。
1  選鉱所水中に含有する粉鉱、泥砂の除去をなお一層有効にする方法をとる事
選鉱所排水及び水中に含有する可溶性銅鉄塩類及び遊離酸類を除去するために新たに適切な方法を設ける事
゚(からみ)捨石、先砂は流失の憂いない所に堆積すること
(第1回予防工事命令)
第2回予防工事命令は明治j30年5月13日に出されたが第1回予防工事命令を具体化したものにすぎなかった。政府は鉱業を停止するかどうかは3月24日設置された足尾銅山鉱毒調査会に任せた形になった。
第3回予防工事命令
5月27日第3回予防工事命令が通達された。内容は第1項から35項まであり、36項は将来に対するもので37項は「此命令書の事項に違背するときは直に鉱業を中止すべし」とある。これは、予防工事を実施してみてそれでもダメなら鉱業を中止せよという内容であったが、存続派の意見も当然出ていることは言うまでもない。この第3回の予防工事命令は具体的な工事内容と期限がつけられたもので例えば沈殿池及び濾過池は、本山のものは1200坪に拡大し構造は、周囲は石垣または煉瓦造りとしこの竣工期限は50日とする、といった内容であった。
煙害対策としても「本山及小滝に於ける精錬所の各烟突(えんとつ)は烟道を以て之を連絡し烟室を設けて亜硫酸瓦斯を除去したる後、製錬所背後の山腹よりさらに大烟道に依り山頂指定の地に至り、本山に於いては高さ八十尺、小滝に於ては同五十尺以上の烟突を設け噴烟せしむ」とあり本山の方の竣工は150日であった。
第3回の予防工事命令は第1回第2回の内容を包む含むものばかりでなく大規模なもので期限を付しているので延期を願ったらどうかという声もあったが、古河市兵衛はだまってこの命令を受けた。
こうした工事予防命令が出てこの問題は一件落着と考える人が多くなり、足尾鉱毒問題に対する世間の関心も少なくなっていきました。田中正造や被害農民に対する応援も次第になくなっていった。そんな中、予防工事命令が出た翌年の明治31年6月、田中正造が所属する政党のリーダー大隈重信が首相に就任し内閣を組織しました。過去の藩閥政府に対して大隈重信は国民が選んだ国会議員の中で一番多くをしめた政党のリーダーだったので、国民代表が首相になったというわけです。
9月、この年も渡良瀬川は氾濫します。前の年の11月には予防工事は終わっていました。川は氾濫しても鉱毒の被害は防げるはずでした。しかし、これまでと同じ様に大きな被害を出してしまいました。予防工事では鉱毒は防げないという田中正造の予感は当たってしまいました。農民は「鉱業停止を訴えよう」と奮起し約1万の農民が雲竜寺に集りました。その約1万の農民が東京へ向かいました。第三回押出しです
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