足尾鉱毒事件 3
真の文明ハ山を荒らさす川をあらさす
村を破らず 人を殺さゝるべし
国会と田中正造
自由民権運動
1873年 西郷隆盛、板垣退助らがとなえた征韓論をめぐって賛成派と反対派が対立していた。征韓論とは韓国に軍隊を派遣してこれを討つという意見だ。しかし征韓論は大久保利通らの反対によって実現せず、西郷隆盛と板垣退助は政府を去る事になった。翌年、板垣退助らは国民の選挙で議員を選び国会を開けという「民撰議員設立建白書」を政府に要求した。これが「自由民権運動」というものだ。西郷隆盛は1877年、鹿児島の士族と共に政府を倒す兵をあげて戦争を行なったが破れてしまった。これが西南戦争というものだ。政府には武力は通じない事がわかると自由民権運動はさらに活発となっていった。
西南戦争が起こることで物価があがると見込んだ田中正造は、その予想があたり大金を手にする事になった。そしてそのお金は人々の生活を向上させるために使おうと決心する。そしてこの決心を実行し自由民権運動に身を投じていく。そうした世の運動が盛んになり1889年「大日本帝国憲法(明治憲法)を発布することになった。この憲法には藩閥政府のリーダーだった伊藤博文がヨーロッパ各国を参考に決定したものだ。
「大日本帝国は万世一系の天皇これを統治す」
欽定憲法といい、主権は国民ではなく天皇にありました。天皇が国民に与えた憲法でした。これまでないがしろにされてきた自由や権利が制限はあるものの保障された憲法で田中正造は感激したといいいます。この時田中正造は、この憲法が天皇の名において国民を守ってくれるに違いないと確信していました。
あゝ嬉しあゝありがたし大君は かぎりなき宝民に賜ひぬ
憲法は帝国無二の国宝ぞ 守れよまもれ万代までも
憲法に違ふ奴等は不忠不義 乱臣賊子なりと知れ人
田中正造が故郷の同士に贈った歌
1890年(明治23年) 第一回総選挙 衆議院議員に当選。この時正造は50歳を迎えていた。この年、足尾鉱毒問題が明るみにでたのである。
〜足尾鉱毒事件と田中正造〜
栃木県を流れる渡良瀬川は足尾銅山のある足尾に水源がありその流れは群馬県、茨城県、埼玉県の県境を下り利根川に合流する川です。この川には様々な魚が住み、鮭も上ってくるほどの川で、また流域の田畑に水を供給する川でした。上流からは養分をたくさん含んだ土が流れてきて、田畑にその養分がたくさん流れ込んでいました。洪水後は畑に数年は肥料を与えなくてもよく作物が育ち、洪水を歓迎した農家もあったそうです。
しかし、鉱毒が銅山から流れ出てからは、さきに紹介したように魚は絶滅し田畑も毒で冒されてしまった。この鉱毒問題解決に活躍したのが田中正造だった。被害農民は国に対して鉱毒を含んだ土を田畑から取り除いてほしい、鉱毒を出す銅山の鉱業を停止してほしい、こうした運動が行なわれる様になりました。
質問書
1891年(明治24年)12月18日「足尾銅山礦(まま)毒ノ義ニ付質問」を第二議会に提出した。 「土地を所有する権利は憲法で認められている。しかし鉱毒によって農民の土地が奪われようとしている。公益を害しているのになぜ政府は足尾銅山の特許を取り消さないのか?政府はこれからどう救済していくのか?将来の損害における防遏の手順はどうか?」というものであった。しかし政府の回答は「被害の原因はまだはっきりしていない。現地の土を調査しているがまだ結果は出ない。新しい粉鉱採集器を導入し渡良瀬川に鉱毒が流れないようにする準備をしている」と回答してきた。田中正造はこの政府の回答について第二回質問で「原因がはっきりしていないと最初に報告しておきながら紛鉱採集器を導入とは矛盾している」と追及する。田中正造は足尾銅山鉱業停止を主張したのである。政府その後の質問に対する答弁は「足尾銅山は一原因でしかない」と回答し、鉱業停止には値しないと発言をした。
国には足尾銅山が営業停止になってしまうと困る理由がありました。当時の日本は「殖産興業」と「富国強兵」を優先し国力を上げる目標がありました。足尾銅山はこうした国の目標に沿った形で開発されてきていたので、銅山が停止してしまうと日本の目標が達成できなくなってしまいアメリカやドイツなどに追いつくという目標は達成できなくなってしまいます。そこで犠牲になってしまったのが渡良瀬川流域の人々でした。国は、渡良瀬川流域の人より足尾銅山を優先してしまいました。
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