煙害への対策
先に記した様に、精錬所から排出される煙には有毒性があり山林を荒廃させていった。1893年に導入されたベッセマー式精錬法により排煙される煙の中の亜硫酸ガスが増加し追い討ちをかけることとなった。亜硫酸ガスの比重は重く渡良瀬川沿いの谷間にたまり風によって川の上流下流約8キロメートルの範囲が激害をうけた。1890年代はこうした煙害がはげしくなり禿山化した山だけではなく農作物や川に棲む魚類にも影響を与えた。1897年政府は鉱毒予防工事命令により古河鉱業に対し脱硫塔を設置させた。これは煙突の中に石灰乳を雨下して亜硫酸ガスを吸収させるはずだったが思いのほか成果はあげられなかった。逆に分散していた煙突が一箇所に集められた事により排煙は松木村周辺に集中することになってしまった。渡良瀬川下流も鉱毒に汚染された土砂等が流れこんで被害が拡大していった。こうして足尾鉱毒問題がクローズアップされていくのであった。
2)復旧事業
1897年第3回鉱毒予防工事命令が出されたと同時に治山事業が始まった。これが「足尾官林復旧事業」の始まりだった。この事業の内容は以下の様なものだった。
1 造林事業及び防火線の設置
2 苗畑の新設
3 保安林への編入
4 官林(現国有林)に編入すべき原野をはっきりっせる措置
5 厳正な施業案(森林計画)による以外は立木の伐採を禁止する措置
造林事業は3年という短期間に神子内川、松木川、久蔵川流域約2400ヘクタールの植栽を実現させた。そして防火線164キロメートルという計画のうち154キロメートルを設け治山工事も行なったのである。しかし結果は神子内川流域では煙害が激害ではなかったこともあり、ある程度の成果はあったが、煙害の激しい松木川、久蔵川流域ではほとんどの苗木が枯れてしまった。これに失望した被害者民は1900年2月、田中正造が設けた栃木、群馬両県鉱毒事務所(足尾銅山鉱業停止請願事務所)になっていた雲竜寺に集ったのだった。こうして川俣事件へと発展していくがそれはまた後述する事にいたします。
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