足尾銅山
足尾銅山は1610年に開山された関東でも有名な銅山です。
栃木県の足尾町(現日光市)にある銅山は日本でも有数の銅の産地であった。坑道の距離は約1200キロ。東京から博多までの距離に匹敵する。足尾銅山の歴史は深く1610年、今から約400年も前の話です。
1610年から明治に至るまで幕府の御用銅を生産していました。そしてその銅は日光東照宮や江戸城の建造の際にも使用されています。その他にも寛永通宝にも使用されています。足尾銅山で採掘された銅の寛永通宝は年間約400万枚も鋳造されていました。1枚3グラムで使用されていた銅は400万枚で12トン、もちろん寛永通宝以外でも銅は使用されていたことを考えるとそれ以上の銅が産出されていました。足尾銅山で産出され作られた一文銭の裏には足尾を意味する「足」の字が刻まれ「足字銭」と呼ばれています。 なお、この寛永通宝は足尾以外で作られた物を合わせて、現在100億枚近く残っているそうです。
足尾銅山が本格的に稼動し始めたのが1877年(明治10)経営が古河市兵衛になってからです。古河市兵衛は1875年、新潟県草倉鉱山を政府からの払い下げを受け順調な経営をしていた。1877年、古河市兵衛は鉱山業に専念する事を決意し足尾銅山を買収することになった。古河市兵衛は小野組(市兵衛の養父が幹部を務めていた)に属していた頃に縁があった元相馬藩藩主(この時相馬家)を買取り、名義人として立て足尾銅山を買収した。相馬家の家令であった志賀直道が共同経営者となり、その後日本資本主義の父と呼ばれ、東京ガス、東京海上火災保険、王子製紙、秩父セメント(現太平洋セメント)、帝国ホテル、京阪電気鉄道、などの設立に関わった渋沢栄一も共同出費者として名を連ねた。(渋沢栄一はセメント工場のレポートの時も名前が出てきています。)
(セメント工場を確認する)
江戸時代の無計画な採掘で生産性が低く長い期間採掘されていなかった事もあり足尾銅山の再生は無理といわれていた。しかし市兵衛は計画的な採掘や探鉱が行われていなかった事が原因と思い足尾銅山の経営に乗り出すこととなった。
1884年(明治17)大鉱脈が発見され、さらに近代技術を導入した結果、相次いで鉱脈が見つかり銅の生産量が増えると共に人口も増え、大正5年には38428人という当時の栃木県では宇都宮市に次いで2番目に人口の多い町となり銅山社宅が次々と造られました。
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