セメント工場 (一部解体)
このエリアの産業を支えてきたセメント産業。武甲山から産出される石灰でこの街は発展してきたと言っても過言ではありません。この武甲山という山は現在でも石灰が産出され、別のセメント産業が山を切り崩している。そしてその標高も採掘で32メートル低くなっています。しかしながらこの街の織物産業とセメントを産業を支えてきたこの山は街のシンボル的存在でもあります。
秩父セメント
大正12年。秩父セメント株式会社設立。秩父工場が稼動を開始したのが大正14年のことです。関東大震災の復興、第二次世界大戦の復興、高度成長期と共にあゆみ、日本のセメント産業に多大なる貢献をしてきた。
武甲山は江戸時代から石灰の産業があった。しかし、場所柄その搬出ルートの確保、地元の利用頻度の低さ、そして製法が不完全だったこともあり発展しなかった。しかし大正、昭和と時代が変わり、その製法もより確実なものとなり、飛躍的に発展していった。
高度成長期から1970年代に入り、セメントの需要が大幅に増えた。そして山の増産が求められた。可能採鉱量は約4億トンと推定されているこの武甲山で、秩父セメント社、菱光石灰鉱業社、武甲鉱業社によって協調採掘協定が昭和49年に結束された。そして昭和53年、山頂開発に着手し始めた。
しかし、それまで豊かな緑で覆われていた山も寒々しい姿になってしまっている。現在でも武甲鉱業、菱光石灰、秩父太平洋セメントの3社により発破採掘されている。白い山肌の武甲山は前記の通り標高までも変わってしまった。このことにより近年、威圧的とも思える山肌には景観の改善と崩落防止の為、植樹がされている。
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