尾去沢鉱山
尾去沢鉱山の歴史は古く、和銅元年(708年)に発見されたと伝えられている。このことは「大森親山獅子大権現御伝記」(天保7年に旧記を伝写したもの)中に伝説として記されている。天平感宝年間(749年)には長坂金山「尾去沢鉱山赤沢地内」が発見され、その産金が朝廷に献上して、奈良東大寺の大仏の造営に使用されたと伝えられている。このことは、南部藩士、伊藤嘉次右衛祐清の手記である「祐清私記」の中の「鹿角金山はじまり之事」に伝説として記されている。また平安時代の後期(1100年)における奥羽藤三代の繁栄には尾去沢の産金が大きな貢献をしたと伝えられている。安土桃山時代(1590年)に南部氏の所領となる。
伝説の時代をのそき、尾去沢鉱山が史実に現れるのは、慶長3年(1598年)の記録が最初です。
これによると、北十左衛門が西道において金鉱を発見開発し、以来この地が金山として栄えた事が記されています。
また、寛文3年(1663年)には田郡に近い夏山に、寛文6年(1666年)には田郡沢にそれぞれ銅鉱が発見開発された事が記録されています。
慶長年間から明治時代の初め頃の尾去沢鉱山の様子を伝える古文書類は、現在200余種残されていますが、いずれも鉱山の史実を明らかにする貴重な資料として研究、保存されています。
岩手県の民謡「南部牛追い唄」に歌われるように、江戸時代南部氏が治めた盛岡藩は各地に金山があった。江戸幕府ができた当初、南部氏は徳川家康に黄金一千枚を献上したという。
明治以降は最も多く金を産出したのは尾去沢周辺である。
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