厨房 | ||||||||||||||||||||||||||
内村のネズミ講は、昭和42年から地方都市を中心に日本全国に瞬く間に拡大した。 最盛期には会員180万人,、3000億円の金が動いていた。 ではその「拝金主義」は、どこからきたのか? なぜ内村のネズミ講だけが大きく増殖したのか? |
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見事に天井が抜けている | ||||||||||||||||||||||||||
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吹き溜まりには疲れ果てた物が窓の外を眺めている | ||||||||||||||||||||||||||
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缶を撮る時のお約束の構図 | ||||||||||||||||||||||||||
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割れたガラスの向こうに、おそらく閉鎖後ずっとこのままの姿でいる湯のみがあった。 | ||||||||||||||||||||||||||
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小鉢も何年も何十年もずっとこのままなんだろう | ||||||||||||||||||||||||||
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貝って言うものはそう簡単に風化しないものなんですね。 | ||||||||||||||||||||||||||
内村は大正15年、熊本県の地方の農家に四人兄弟の次男として生まれた。 中学を退学後、予科練、鹿児島海軍航空隊に入隊。“特攻隊員”として20歳で「終戦」を迎えた。 郷里に帰ってみると、価値観は一変、ゼロからの人生スタートだった。 戦争から帰って焼け野原を歩いていると、日本が復興するには国の基幹産業が立ち上がらなければいけないと考えたわけです…その資金をまかなうためには…と自分なりに考えた結果、まず保険会社に飛び込んだ。 内村の目には、敗戦直後の日本は現金の力だけが信じられる異様な社会状況だったという… 内村は保険会社に外交員として飛び込み、以来20年間、県内屈指の腕利き外交員として勧誘のネットワークを築き上げていく。人を信用せず、現金だけを信じた内村の第2の人生のスタートだ。 「彼は別に話術がうまいわけじゃない…“ネバ口”といわれ、考え考え…とつとつとしゃべる…それに田舎なまり丸だし…ただし相手の目をじっと見て話す。だから説得力があった。」(友人) 実は、内村の保険外交員は…副業だった。 昭和23年に結婚した内村は、妻に「新月」という遊郭を経営させ、子供3人に恵まれている。 現金商売の面白さをこの時代に味わったといえる。 遊郭は、売春防止法が制定された昭和32年まで続き、その後、旅館業からラーメン屋に転業。昭和42年、 ここから「第一相互経済研究所」が発足した。 内村が、「天下一家の会」の発想を得たのは、病院のベッドの上だという。 40歳の時、彼の持病だった糖尿病が悪化して入院。ひらめいたのが、ネズミ講だった。 |
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